大判例

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東京高等裁判所 昭和59年(う)1517号 決定

被告人

島田昭次

右の者に対する所得税法違反被告事件について、被告人が脳幹梗塞のため心神喪失の状態にあると認められるので、検察官及び弁護人の意見を聴き、刑事訴訟法第三一四条一項により次のとおり決定する。

主文

本件公判手続を停止する。

(裁判長裁判官 海老原震一 裁判官 小田健司 裁判官 阿部文洋)

(昭和五九年(う)第一五一七号)

○ 控訴趣意書

被告人 島田昭次

右の者にかかる所得税法違反被告事件につき、左記のとおり控訴趣意書を提出する。

昭和五九年一二月二四日

主任弁護人 柴田政雄

弁護人 鹿児嶋康雄

弁護人 浅田千秋

東京高等裁判所第一刑事部 御中

原審判決は次の諸点において理由不備乃至理由齟齬並びに明らかに判決に影響を及ぼすべき法令解釈適用の誤及事実誤認があるので、破棄されるべきであり、被告人は無罪である。

しからざるといえども量刑不当があり減刑されるべきである。

第一点(さろん松の収入帰属について)

第一(理由不備乃至齟齬)

原判決は、昌子の経営するさろん松の収入で同女が本件株式を購入したものであるとの弁護人の主張に対して、被告人が花電車に専念するようになってから「同女に同店の営業を任かせるようになった後も同店の営業は被告人名義で行なわれていたものであって、被告人が昌子に対しさろん松の営業を譲渡するなどしてその経営まで任せた事実はない」と判示している。

しかしながら、所得税法第一二条の実質所得者課税の原則はいうまでもなく営業許可名義や形式的な営業譲渡の有無いかんにかかわらず、現実に収益を享受している者に対して課税する所謂実質主義(実質課税)の原則を宣明したものであるから、さろん松の経営より生じた収益を被告人又は昌子が現実にいかに享受していたかの事由を示すべきなのに原判決は右を示していない理由不備の違法がある。

それに営業許可名義は被告人のままでも経営委託等により対外的には委託者の名によって行動していても内部的には受託者の計算と従業員の雇用その他の責任において委託者に一定割合の支払をして受託者の事業として経営を遂行することもある種のフランチイズ契約等の例をみるまでもなく日常多く行なわれているものであるから、問題は原判決のいう「同女に営業を任した」というその実体的事実にあるのに原判決は右を示していない理由不備もある。

営業譲渡が無かったから現実の営業と収益の享受が被告人にあったということにはならない。

以上の事由は仮に理由不備の違法とならなくても次に述べる事実誤認の事由とはなりうるものである。

第二(事実誤認)

一 原判決は、さろん松の収入が被告人に帰属する理由として以上述べた事由の外更に次の諸点を挙げている。

(一)「さろん松の営業所得の処理、ことに所得税の確定申告に際しては……………当初より被告人の所得として処理されてきたものである」

(二)「さろん松の収入は専ら昌子によって管理されていたものの、被告人あるいは花電車の運転資金に随時流用されている」

(三)「さろん松の収入によって新築された家屋が被告人の所有名義で登録されていること」

二 右(一)について

実質課税の原則が営業許可名義いかにかかわらないのと同様さろん松の所得の申告が被告人名義であることは、だからこそ実質主義によって所得の帰属を判断すべきであることを弁護人は主張しているのであって、右自体は本件では絶対的理由にならない筈である(東高判38 3 18・税経通信・租税回避・脱税重要判例紹介五三頁)。

右(二)について。

昌子は元々さろん松は開店以来被告人との共同経営であり、半分は自分のものと思っていたからこそ内縁でありながら給料を一銭も貰わずに働いて来たのである。

従って収入の半分は被告人のものと思って又夫婦仲から仮にある程度被告人や花電車にさろん松の収入を用立てたとしても何等不思議なことはない。

若し、右収入の流用が問題にされるなら、何時、幾ら、どのようにして流用されていたか、こそ問題にすべきである。

被告人が昌子に店を任したことの意味は「自分が上原さんに店を任されたことと同じように富安や島田利夫に店をまかした意味で、その店の損益はすべてまかされた者の責任である」ということにあることは明らかであり、右任したことの対価は、交際費名目でさろん松も含めて月々定まった額であったことは明らかである(被告人の供述記載原審第七分冊(以下単に「七分」の如く表示する)一四二八丁、一五一六丁、第一二回公判(以下単に「一二回」の如く表示する)一二分八一六~八二二丁、八三二~八三四丁外)(原審弁論要旨一三~一四頁参照)。

確かに、その外にも昌子が花電車が赤字のため資金を用立てたことはあった。

しかし、それさえも「社長借入」「ママ借入」として両者明確に区別されて花電車側に記帳されていたことからみれば、花電車側もさろん松の収入帰属者が昌子であると認識していた明確な証拠である(弁三三別途会計帳簿53 9 5欄及坂田の供述四四九分一七七丁、六回一〇分二二五~一二六丁)。

右以外には両者約半々負担の家事費用を除いては被告人や花電車に随時流用したが如き事実はない。

右(三)について。

さろん松が両名の共同経営なら勿論のこと昌子の単独経営にかかわるものであっても昌子の年令から来る古い美徳感覚からいっても主人の顔を立てて住居の登記名義を被告人名義にしたからといって、このことをもってさろん松の収入が被告人のものであったとする原判決は社会通念に反する。

共稼ぎの勤労夫婦であっても、夫又は妻名義だけにする例も少なくない。

三 要は、所得税法第一二条に基き誰が事業者であるかは従来の判例通達上の判断基準である「資金繰りその他営業の重要事項の決定について支配的影響力を有する者は誰か」という観点から決定すべきである(新日本法規・判例租税法1一五〇頁以下、所得税基本通達一二-五)。

しかるに、原判決は要するに「営業許可名義や事業所得の申告や家屋の登記名義が被告人であることから、又さろん松の収入が一部被告人に流用されているから」というだけでさろん松の収入が被告人に帰属するといっているだけであって、具体的な店舗改造の資金繰りや、従業員の採用や営業方針の決定等すべて昌子がやっており、被告人は花電車の経営に専念してからさろん松から交際費名目で月々上納金をとることはあっても、さろん松の資金繰りに参画した事実は一片だにない(弁六三~七九、昌子一〇回一二分七〇四丁、第一一回同七四三丁)。

それをもって、単にさろん松の経営を昌子に任したと表現するだけでは同店の営業に具体的支配力を有する者が被告人であるということにはならない筈である。

四 さろん松が実質上昌子単独の、少なくても被告人との共同経営であると判断すべきは次の事由を併せ考慮するとき益益明らかである。

(一) 昭和三〇年頃さろん松を開店するに当って、昌子は自己の貯金や借入金をもって出資していること(昌子供述五分九九四丁、一〇回一二分六七九丁、被告人一四回一三分九三〇丁外)。

(二) 原判決は、昌子の「私のお店だと思っていたからお給料は貰っていないし、者えてみたこともない」との当然の供述(一一回一二分七三六丁)を無視して、逆に株購入資金源資としての給料債権の確定もないから、これを認めない旨認定している(原判決三〇丁)。

昌子は、それこそ自分の店だと思うから紛骨砕身毎日閉店後の午前二時~四時頃まで働いていたのである(一〇回一二分六八一丁)。

それに昌子は被告人と内縁であり、民法上相続権も扶養請求権もなく又税法上も判例通達上明らかなように、配偶者控除も事業専従者控除も受けられない他人扱いをされているのに、昌子のさろん松における稼働価値と後述の如く同女の研究と手腕による株式売買益はすべて被告人に帰属し昌子の価値は単なる妻の協力とのみ片づけている原判決は昌子にとって不公平であり残酷である。

所謂亭主出稼ぎの夫名義の土地の妻の農耕や親経営の印刷工場での親子の稼働についてさえ場合によっては妻や子供が実質的な収入帰属者であることを認めている判例も少なくない。

ましてやクラブという風俗営業においてその損益はすべて大ママとしての昌子の双肩にあり、被告人は営業上のことで一回も店に顔を出したり、指図した事実もないことを考慮するときさろん松の収入帰属に関する原判決は絶対承服できず明らかなる事実誤認がある。

(三) 被告人は同四〇年代頃より大都企業の競走馬の競馬に関心を有し競馬場通いが多く大都企業や花電車にさえ余り顔を出さず、花電車の幹部従業員や店を任した元従業員や友人等の取巻に囲まれて毎晩ウイスキー大瓶一本を飲み明かす習癖を身につけた生活だった(被告人七分一五二八丁、坂田六回一〇分二三九丁、大藤八回一一分四四八丁外)。

だからこそ花電車は同五〇年頃より実質赤字に落ちこんでさろん松のみ黒字を出していたのである(坂田四分八八七~八八八丁、八九二~八九三丁申告金額の圧縮状況表)。

右事実に徴してみてもさろん松の事業決定に支配的影響力を有していたのは昌子であることは全く疑いのないものである。

第二点(仮にさろん松の収入が被告人に帰属するとしても株式譲渡益の帰属について)

第一(理由不備乃至齟齬)

原判決は、株式投資について

(一)「昌子が昭和三五年ころからさろん松の収入で株式の購入をするようになり、そのご同女は株式投資について熱心な研究を重ねるとともに投資額を拡大し、株式の取引を本格的に行なうようになったこと、本件株式売買の証券会社への注文、銘柄の選定等が昌子によって行なわれていたことは所論のとおりである」と認定しながら、

(二)「他方被告人は昌子の健康や株によって損失することを心配し、やめるように何度か忠告しながらも」

(三)「儲けているかどうかをたずねたり、証券会社との間に多額の現金の受渡には自らこれを行なうなどしてその取引に関与して」おったから

(四)「結局昌子が被告人の計算において本件株式の売買を行なうことを了解していたものと認められる」としている。

一 しかし乍ら、右(一)の大前提と(二)の小前提が何故(四)の結論の媒介となるのか、社会通念上よく理解できない意味で原判決には理由不備の違法がある。

(一)は、いうまでもなく、具体的な株取引の決定はすべて昌子がやっていたということである(被告人に対する否定)。

(二)は、被告人が右に反対していたということである(否定)。

(三)は、被告人の行為の肯定である。

大前提と小前提の両概念が不一致なら結論が否定になることは論理学の教えるところである。

それはさておき、被告人は昌子が株をやっているということ自体は知っていたのだから夫婦仲として偶には(三)の如く「儲かっているかい」等と口端に出して聞いてもそれは端なる夫婦間の挨拶程度の域を出ていないし、それ以上格別の意味を有しないことは被告人や昌子の全供述を綜合しても明らかである(昌子一〇回一二分六九七丁)。

又被告人は内外証券に、それも一回だけ昭和五〇年八月頃以後一〇〇〇万円を昌子に頼まれて取りに行ったことはある(斉藤三回九分九九丁、被告人)。

しかし、被告人が昌子の株に反対していたことと夫婦仲のこととして昌子が所用がありどうしても行けないとき、又は昌子も女性としての感情から儲けたことを株をやることに反対していた被告人に若干誇りたくて右使を頼んだからといって、即被告人が昌子に株をやらしたことには社会通念上到底なりえない。

ちなみに、被告人の収税官吏に対する「立花証券の藤木さんが退社した時現金七〇〇〇万円を引出したことがある」旨の供述(七分一回八五丁)等藤木自身も認めていないし(四分六六〇丁以下)、原判決すら信用していない。

二 要は原判決のいう「被告人の計算において株式売買を行なうことを了解(即ち合意)していた」との意味内容が不明なのである。

税法上の所得は法律行為等私法上の法律要件に基く法律効果か(法的基準説)、又は簿記会計上の期間損益の経済的成果であるか(経済的基準説)、については周知のとおり争はある(松沢智・租税実体法(増補版))。

本件では、原判決のいう「了解(合意)」によって株売買益が昌子が被告人のいずれに帰属するかが問題であるのだから当然右了解という契約内容が問題にされなければならないのは当然である。

そして右合意とは恐らく営利性の最たる絶対的商行為としての有価証券の売買(商法第五〇一条一号)の委任と解するのが通常であろう。

しからば、かかる売買実行者としての特殊な手腕による営利委任が無償だと考えることは社会通念上誰もいない筈である。

それに右委任が何時、いかなる内容(証券会社との関係、ウリ、カイ、成行、指値、信用その他清算及報酬等の債務履行時期その他)で、いかなる期間締結されたのか等の要件を確定しなければ右委任による所得としての法律効果及びそれに基く債務実現の蓋然性等所謂判例の権利確定主義による税法上の所得の確定はしようがない筈である。

それに昌子の負う被告人に対する善管注意務なるものがどうなっているのか。

原判決は以上について一切沈黙したままの理由不備の違法がある。

第二(事実誤認)

前述の理由不備として弁護人が主張した事由は少なくても事実誤認の根拠となりうるものであるが、次の諸事実を併せ考慮するとき原判決の事実誤認は益々明らかである。

一 被告人が昌子の株取引に反対したのは通常人の社会通念上株等所詮何時かは損するに決まっているとの観念からであり、昌子が本件の如く利益を挙げているのを知っていたなむば恐らく反対はしなかったであろう。

二 だいいち、被告人は昌子に株をやらせていて昌子の株取引に反対であったという原判決はそれ自体自家撞着ではあるが、それはさておき、被告人が、昌子のさろん松の収入による株取引に反対ならば、右収入が被告人に帰属するもので単に昌子に指図して又は了解して株をやらせたのならば、何時でも株取引の中止を命ずればすむことであって、何も夫婦の痴話喧嘩等で反対を口に出すまでもなかろう。

真実は昌子の取引であったが故に被告人は何等昌子の株取引に反対を表明しながらも口出をした事実がないのである。

三 同三五年ころより約二〇年間にも及ぶ昌子の株取引について、「儲かっているか」等と聞いたり又は反対しながら被告人は全然具体的な損益や各年度末にせよ確定した投資額についても全く聞いたり、聞かされたりしていないこと。

そもそも被告人の昌子の株取引の反対に対しては、昌子は検察官の質問に対して「主人も馬なんかやっているんだから自分も株をやる位の自由は与えてくれてもいいではないか等と口喧嘩したことがある」旨供述しているが、右は被告人が昌子が株取引が昌子のものとしてやっていることを前提としての話であることを如実に物語っていること(一〇回一二分六五五~六五六丁)。

四 原判決は本件譲渡益が被告人に帰属する理由として更に次の如く判示している。

(一)「証券会社の担当者に対し、被告人が多忙なので昌子が被告人にかわって株式取引の実際の注文等を行なうことを告げたこと」

(二)「昭和五〇年ころには税理士から同女の名義で取引をしてその資金源を税務当局から追求されるとまずいことになると忠告されるや漸次取引名義を被告人名義に変更したこと」

(三)「同五四年八月八日(被告人が)入院先で第一回目の取調を受けたが、このとき大部分を妻が独自に売買したことを供述し、ただその実質については被告人の財産の運用管理に任せていたものであることを供述していたが……………被告人の供述中少なくても本件株式の売買が被告人の資産を昌子において行なったものである旨の供述は真実を述べたものと認めることができる」

(四)「昭和五四年以降においても本件株式による配当所得を被告人の所得として申告していること」

五 右(一)について。

しかし、証券会社との実際の取引名義は同三四年ころより同五〇年ころまではほとんどが侑希名義であり(斉藤四分六四九丁、三回九分九三丁)態々「主人に代って(即ち主人の名で)やる等」いうことはその意味も必要もないことである。

被告人の了解の下に被告人の計算で株取引を行なったものであるなら始から被告人名義で取引をすれば事足りるものであって態々侑希名義や小林その他他人名義で取引する意味も必要もないのである。

又仮に同五〇年ころ以後被告人名義の取引について判示の如く言ったとしても、動機はいかにあれ昌子が被告人名義を利用して取引を行なうための証券会社間の単なる口実にすぎないことも日常経験則上明らかである。

例えば親が無断で子供名義を受取人とする保険契約をしたり又は子供名義の預金をしてもそれは世間に通常ありうることであって、それをもって子に対する贈与として課税することは容易に認めないのも判例である(大阪高判39 12 21行裁例集一五巻一二号二三三一頁外)。

右(二)について。

しかし、これは従来の株取引が昌子(侑希)名義が主であったことを証するものではあるが、それはさておき右名義の変更は、株購入資金についての出所を追求されると、右資金が贈与として課税されると困るとの昌子の単純かつ浅はかな考からではあったと推測されるが、株取引利益についての意味でないことは右表現からも明らかである。

そして右は却って被告人に名寄の結果課税要件の回数等形式的条件を超えること即ち名義分散による譲渡益についての昌子のほ脱故意を否定する証拠になるものである。

それに右名義変更は被告人に無断で昌子の才量でやったものであり右に反する証拠は皆無である。

それに昌子が右名義を変えたのは、日興証券(等四大証券)が女性との信用取引を警戒していたための事情もある(柴田九分五六丁、斉藤九分一四五丁)。

右(三)について。

しかし、右判示の真実を述べたものと認められる供述は、原判決も認める如く被告人が昌子をかばうための供述の一環として恐らくは収税官吏の苦労した誘導尋問に基くものであり、だいいち株の「大部分を妻独自に売買したもの」との供述と明らかに矛盾している。

右に関連する被告人の矛盾した供述の分析については弁論要旨二二頁四四頁参照。

他に右に反する供述が圧倒的に存するにもかかわらず右矛盾した一片の供述(それも供述したか否か不明)をもってのみ株取引益の帰属を認定することは自白偏重につながり社会通念にも反する。

被告人の財産運用管理をまかしたというだけでは、その所得の法律要件である合意の内容が有償かも含めて全く明らかにされていないのは理由不備でもある。

右(四)について

しかし、右は昌子が五〇年ころより税理士から指摘されて以来の一環の動きなのであって、右と異なって格別の意味を有するものではない。

当弁護人柴田は被告人から本件起訴頃株式名義を真実の権利者昌子名義に変えようか、との相談があったが、本件裁判中に姑息な手段をとることなく、真実が認められてから変更すべきである旨話したことがある。

原判決は、被告人名義を同五四年頃以降昌子に変えていたらば五三年度までの取引を昌子のものである旨認めてくれたのであろうか。

六 以上の原判決の不合理性に加えて更に次の諸事由も併せ考慮するとき事実誤認は益々明らかである。

(一) 昌子は被告人と同居している広い自宅が雷門にありながら、月二、三回も数百万円から約千万円の証券会社との現金受渡を一部証券会社で行なった外はすべて態々喫茶店で行なっており、そして被告人が偶々、昌子に他の所用で会いに来たときも証券会社の担当者と一切株の話をしていないこと(柴田九分四七丁、五一丁、斉藤九分一〇〇丁、昌子四分九二九丁、一〇回一二分六九四丁)。

右事実は昌子が被告人に出来るだけ株取引を知られないようにやっていたことを証するものであることはいうまでもない。

(二) 昌子は飯塚利夫から預かったバー松の売上も株取引に流用していたこと(四分九一二丁、五分一〇〇〇~一〇〇一丁、一一回一二分七四七丁)。

右についても原判決は、被告人の了解と計算の下に昌子が行なった、とでもいうのであろうか。

(三) それに前述の如く昌子は約二〇年近くの株の売買益はすべて上のせして投資に固定し、一回も被告人に清算したことも、株取引内容について具体的な報告も、吉田虎禅氏の影響による投資哲学(?)ともいうべき信念から、被告人に一回も報告もしたこともなければ、被告人も昌子に聞いたこともない事実は両人の供述により明らかであり右に反する証拠は皆無である(一一回一二分七七三~七七四丁外)。

花電車が同五三年頃赤字でも右清算の話はないばかりか逆に「社長借入」と区別して「ママ借入」と帳簿に記載されてもいる。

果たして、右事実によって昌子の株取引が被告人の了解による被告人の計算によったものと社会通念上想像できるであろうか。絶対ありえないことである。

七 原判決は単純に、昌子が被告人の了解の下に本件株式の売買を行なっていた、と片づけているが、昌子の場合は通常の会社等における従業員と立場も事情も異なることを看過している誤りを犯している。

第三点(被告人の本件株式の譲渡益についてのほ脱故意の欠について)

第一(事実誤認)

一 原判決は、被告人の右ほ脱故意認定の事由として要旨次の如く判示している。

(一)「被告人は収税官吏に対する各質問てん末書及検察官に対する各供述調書において、本件株式の具体的な取引状況等についてかなり詳細に供述しているところ」

(二)(真実でないと認められる被告人の株式発注受渡等を除いて)

(三)「昌子の各関係証券会社担当者に対する取引状況、被告人の右昌子の株式取引に対する関与の状況等に照らし」

(四)「昭和五三年の本件株式取引において少なくても数千万円を越える売買益が生じていたことを認識していたとの供述部分は十分信用できるものである」

二 しかしながら、右判示は宗旨も一貫せず明らかに真実に反する被告人の一片の供述を信用した違法不当がある。

(一) 右(三)のうち「昌子の各関係証券会社に対する取引状況」については被告人が知らないことは原判決も右(二)の判示によっても認めているところであろう。

すると問題になるのは当然「被告人の右昌子の株式取引に対する関与の状況」から原判決は被告のほ脱故意を認定したことである。

では一体右被告人の関係状況としての具体的事実とは一体何を指すのかについて原判決は明確でない。

原判決も被告人が昌子のさろん松の収入を運用して株式の売買を行なうことに反対していたことをもって右被告人の具体的関与とみているとは思えない。

右自体昌子自身の株取引を証するものであることは前述した(第二点第二、二)。

すると残るところのものは被告人が内外証券から同五〇年八月以降ころ一〇〇〇万を昌子に頼まれて受取って来た、という事実だけである。

しかし、被告人が昌子の株投機に反対していた意味は、一時儲かることはあっても、結果的には損失を出すからの意味であることは原判決自体も認めているところである(一三丁)。

だとすれば被告人の一回限りの、それも五〇年八月以降何時のことかも明確でないのに(斉藤三回九分九九丁)右「お使い」の一事のみをもってしては、同五三年度の株取引利益の認識を有していたとの証拠にはなりえない。

(二) 現に昌子は同五一年に二六二万円余同五二年に一、二三九万円余の莫大な損失を蒙っており同五三年についても期末近くになって、しめてみなければ正確な損益の判断が出来なかったのが真相だと思われる。

ましてや昌子は当時被告人には一切損益の話を嫌がって、していない位であるから被告人において昌子の損益の認識ができる筈がない。

(三) 原判決は「同女から売買益の一部を受領する等して(昌子の取引を)了解していた」旨認定しているが、右は被告人が右一〇〇〇万円を受取った昌子に渡したとき夫婦の戯むれ的な、いわば「お駄賃」的なものとして一回だけ一〇〇万か幾らか渡されたものであって、いずれにせよ被告人が昌子に株をやらしたことの清算等とは全く無関係のものであり(昌子一〇回一二分七〇五丁、被告人一二回一二分八六〇丁)、右の如きあいまいな供述をもってのみ事実を認定する原判決は不当である。

むしろ右事実は本件株取引が昌子によって行なわれていたことを証するものである。

(四) 原判決は被告人が「塩崎税理士から組合を通じて株式の課税要件を知らされて株式の売買益についても課税されることを承知していたものであるが」旨認定している。

しかし、被告人が課税要件のことを聞かされたことがなかったこと又は少なくても記憶にないことは収税官吏と検察官に対する右に関する供述の過程を分析すれば明らかなことは弁論要旨で述べたとおりである(同要旨四三頁以下参照)。

それに仮に被告人が課税要件を知ってほ脱意思をもって工作したというなら、同五〇年ころまで主として侑希名義の取引名義をそれ以降同五三年にはほとんど被告の取引名義に態々名寄して課税要件と該当すること等およそ社会通念上考えられないことである。

三 そこで次に原判決が信用できるとしている質問てん末書検面調書における被告人の全供述を次に検討してみる。

(一)(54 10 31大)

「昭和五一年分同五二年分は損益がとんとんの状態で同五三年分はかなり利益が出たものと考えておりました」(七分一四六五丁)

「株式取引の方に廻した金額は三〇〇〇万円位であったことを追加して下さい」(七分一四六六丁)前述の如く昌子が同五一年同五二年受けた損失は莫大なものがあり、被告人が株式損益を自己のものとして認識していたならば同年分「損益とんとん」等という筈がない。

それに右では三〇〇〇万円は株式の購入資金であるといっているのであって利益とはいっていない。

被告人が右購入資金を三〇〇〇万円と供述したのは同五四年八月三日ころ税務査察が入った後昌子が自己をかばって貰うべく被告人に泣きついたとき、被告人は昌子から株購入資金だか利益だかが三〇〇〇万円である旨莫然と聞いたことがあるため被告人の脳裏に単に「三千万、三千万」という数字が残っていたからに外ならない(一二回一二分八七二丁八八四丁)。

(二)(55 1 16大)

「私は最終残余金についてどのように(昌子が)管理し、費消していたのかを知らなかったのが実情です。

従ってどの現金がいくら株式購入代等に使用されたのか私は具体的に知りません。

先日申し上げた私の株式購入代に使われた資金が三〇、〇〇〇千円位は私の直接計算したものではなく・・・・・正確な金額は私は知りません。・・・・・妻に聞いて下さい。

各年末の株式の預り金、信用保証金の残高について、私は計算したことはありませんでしたが各年の残高は増えても減ってはいないと思います。」(七分一四八三丁~)

右によっても、被告人が妻の株取引が脱税になることを懸念して、それをかばうべく、なんとか収税官吏の誘導尋問に迎合していることがわかるが、真実はわからないために右の如き供述になっている。

それに昌子が株の脱税でやられるのだから昌子に儲けがあったのではないかということを査察に入ったこと自体により被告人が想像することは容易であるから右はその旨を述べているにすぎない。

けだし、現実に同五一~五二年損失があるのに各年末の残高等真実は被告人にわかる筈がない。

(三)(55 9 24大)

「私の記憶では一億円にはなるが五千万円以上にはなっていると思います。

五三年は株価の動きが激しくチヤンスだと思いましたので手持の現金や株式をつぎこんで売買しました。その結果正確な計算はしておりませんが私の感じとしては今述べた金額になると思います。」(七分一五二二丁)。

従来単に購入資金が三千万円だといっていたが、右では右元手の二倍から三倍の利益が生じたような、現実にはあり得ないような供述になっている。右は明らかに収税官吏の誘導質問に自ら迎合していることを証するものである。要は株については取調官の質問次第でどのようにでも変化しているのである。

被告人がバッタバッタと株売買を自ら熱心にやりながら、その利益が一億か五千万か著るしい差があるあいまいな回答しかできないということは誠に不思議な話であり、右は真実でないことを意味している。

恐らくは、この辺りで収税官吏は被告人が株取引をやっていないことを証券会社の裏付調査でわかったことと思われる。

国税局が証券会社の斉藤や柴田を取調べていながら同人等の質問てん末書は原審で取調の申請がなされていない。

(四)(57 2 24検)

「妻から正確な金額を聞いたことはありませんが昭和五三年前半に儲けたという話を聞いておりますので金額は五〇〇〇万円を超える儲けがあったものだろうと考えていました・・・・・」(七分一五三丁)。

右「五三年前半に儲けた」という話を聞いたというのは何時のことなのか不明である。

被告人は同五四年八月ころ昌子から前述の如く三千万円の話を聞いたことはあるがそれ以前株の源資額や利益等聞いたことはない。

前述の如く昌子は虎禅式株投機哲学の影響を受けて、自ら儲けの計算を意識的に避けており、ましてや被告人に話すこと等なかったのである(一一回一二分七七三~七七四丁)。

いずれにせよ、検察官の右質問は質問てん末書に基いたものであり、被告人は昌子をかばおうとする心理が依然残っていて検察官の意に迎合したことも事実である。

検察官も恐らくは真実の株取引は昌子によって行なわれたものであることはうすうす分かっていながら公訴時効が遍迫していたがために敢えて強引なる供述をとったのではなかろうか。

その責任の一端は被告人夫婦にもあるのではあるが。

(五) 仮に、被告人に昌子の取引した株の損益についての認識があるとすれば同三五年ころ以降の全年に亘る結果について、「店も、まあまあやっているんだから格別損もしていまい」程度の認識であって、各年度各の損益ではないことは次の供述を綜合しても明らかである。

若し何億円も儲かっているのがわかっていたら人情として被告人も昌子の株取引に反対しないであろうし、儲けの分前を恐らく何等かの方法で問題にした筈である。

しかし、昌子は自分の店と信じているさろん松や自身の将来を考えて株取引をやって利益を上げたがそれを被告人に秘していたものであり、その人情の機微となるものとしては、昌子が被告人より五才年上(本年六〇才)であり、子供もなく、被告人の浮気に悩まされることも少なくなく、そのため婚姻届も出せないでいた事情を御賢察頂きたい( )

(六) 以上原判決が一片の被告人の供述のみを信用して本件ほ脱故意を認めるということ自体自白偏重であり違法だと思料するが、それはさておき被告人の次の原審公廷における供述を綜合すれば右供述さえ益々信用できないことは明らかである。

第一四回公判一三分冊八七二~八七三丁、八七七~八七八丁、八八三~八八四丁、八九〇~八九一丁、八九三丁、九九七~九九八丁、一〇〇四丁。

第一五回公判一三分冊一〇九二丁

第一七回公判一四分冊一二七二丁

(七) いずれにせよ被告人は昌子をかばうために真実に反する供述をしたが故に一体いかなる質問がなされたのか否か、それに対してどう供述したか否かも、こと株取引に関する限り記憶がなくわからなくなってしまっているのが真相なのである。

それに被告人は質問をよく聞かないで供述する性格的な習癖もあることは供述を検討しても判明するところである。

(八) 原判決が、そもそも、さろん松の収入や少なくても株取引益が被告人に帰属すると認定したこと自体社会通念上無理であったと思料する。

第二(法令解釈適用の誤)

一 被告人が仮に「数千万円を超える売買益が生じていたことを認識していた」としても同五三年度の所得となるべき売買益は原判決によれば配当所得も含めて約八、八〇〇万であり、単に「数千万円」程度の認識ではほ脱犯の故意を問うには不十分であり故意(刑法第三八条)に関する法令解釈の誤まりがあるものと思料する。

ほ脱犯の故意については個別的認識説と概括的認識説があり、判例学説上争いがあることは周知のところではあるが当弁護人等は被告人の人権を保障する立場から前説に立つ。

そうでなければ明文なくして被告人の責任が拡大され罪刑法定主義並びに刑法の責任主義に反する。

本件は窃盗罪における犯罪行為の客体に関する数量の錯誤に似ているが、ほ脱犯の行為の客体が所得乃至免脱税額である以上その基礎となる損益についての正確な認識がなければほ脱犯の故意は成立しえないものと解する。

被告人のいう数千万円の利益とは、長年に亘っての結果の認識であって、ある年度又はある取引については損失もあることも含めての想像なのであり、同五三年度においても、法的会計学的な意味で、何が利益で何が損失かまで考えた上での認識ではない。

このことは損失のあった同五一~五二年度の認識についても同様である。

被告人にはかかる意味合で莫然とした認識しかなかったのである。

かかる場合にもほ脱故意の成立を認めることは法令解釈適用の誤りがあるものと思料する。

二 右は少なくても事実誤認の事由になりうるものと解する。

第四点(昌子に対する給与ないし報酬(以下報酬等という)について)

(原判決二九丁裏)(九丁裏)

一 原判決が仮にさろん松の収入や株売買益が被告人に帰属すると認定するならば少なくても条理上次に述べる事由によって昌子の報酬等は認めて然るべきであり、その点事実誤認乃至法令解釈適用の誤りがある。

二 原判決は被告人が昌子に「接客、ホステスの指導、売上金の管理等をさせながら」「同女に同店の営業を任せるようになった」と認定し(七丁裏)、更には昌子が「株式投資について熱心な研究を重ねるとともに投資額を拡大し取引を本格的に行なうようになったこと、本件株式売買の証券会社への注文、銘柄の選定等が昌子によって行なわれていたこと」(八丁)、更には「取引名義についても当初から自分(昌子)名義を使用して」取引していた事実を認めながら(一〇丁)「昌子がさろん松から報酬ないし結与を受けていた事実はないので同女が受領すべき報酬ないし給与が本件株式売買の資金にあてられたものと認める余地はない」と断定している(九丁裏)。

右が実質主義の原則から又法律効果としての所得の解釈上誤りであることは既に述べたとおりであるが、それはさておき仮に昌子の株取引が被告人の委任によりながら、格別報酬の取決がないとしても、又は仮に委任がなくても株取引益が被告人に帰属するとしても(この二点については原判決は判断していないが)、当然相応の報酬等は昌子に認められて然るべきは条理であろう。

三 民法上他人の事務を処理することによって生ずる事務管理の効果としてさえ他人の行為によって利益を受けた本人は、例えば医師の治療の如き通常の報酬支払義務を負担すべきであると有力学説によって解され、一般的には「管理者の才能によって異常の利益を収めたときはその部分については管理者に返還義務はない。

事務管理としても、かかる才能は経済的価値を有するものだから一種の費用として返還すべきものである。

そうでなければ本人側において他人の才能による不当利得をすることになる。

したがって、管理者が特殊の才能・学力を用いたときにも、これを不当利得とすると(準)事務管理とするとで差異を生ずるものではない」と説かれている(松坂佐一・有斐閣法律学全集・事務管理不当利得(新版)六頁、四九頁)。

要は社会通念による公平の原則解釈の当然の帰結であろう。

右の理は夫婦別産制をとっている婚姻夫婦間でも同様であろう。

ましてや内縁で前述の如く民法上税法上他人扱されている昌子にとっては問題はなかろう。

絶対的商行為である有価証券の投機的売買においてはそもそも無償による委任ということは商法上あり得ないものであり、その意味でも被告人の計算と責任の下に昌子の間に無償で株取引の合意があった等認定すること自体不当であることも前述のとおりである。

右事務管理的効果又は不当利得の効果としての報酬乃至利得請求権は昌子の株式運用利益が発生する如に当然発生しているものであるから、右は被告人の確定債務として実現しているものである。

簿記会計上の所得算出方法からいっても右運用利益に対する昌子の報酬等は原価等の費用収益個別対応乃至期間対応の原則に基き当然確定された費用として昌子の権利でもあり、それが長年支払われて昌子の本件株取引の運用資金となったものと解すべきである(行裁例集二四巻八・九号八四六頁)。

その場合の昌子の年間報酬額は、他の風俗営業の雇われママの月間報酬が約一〇〇万から二〇〇万円であること(昌子の供述)花電車等における幹部従業員の月間給与が五〇万円を下っていない事実更にはさろん松が昌子の経営手腕により黒字であること、それに株で被告人に儲けさせてやっていることに徴すれば少なくても一、八〇〇万円(月間一五〇万円)を下らないものと解すべきである。

然らざれば、前述の如く昌子は民法上被告人に対する相続権その他何等の権利もなく、又税法上被告人は何等の事業専従者控除も受けられず(これは昌子の所得でもある)昌子の長年の稼働は零と認定され裸で放り出される結果となる不公平かつ残酷な扱を受けることになる。

四 仮に、右昌子の報酬等が同女の株購入資金としては認められないとしても被告人の株売買益から減算されるべき必要経費として認められるべきは当然である。

第五点(非営業貸付金の雑益から減算すべき貸付について)

第一(法令解釈適用の誤)

一 原判決は、大沢、福田、橋本に対する被告人の貸付について「これ等の事実を綜合すると被告人は・・・・・昭和五三年中に前記大沢らに対する貸付金の回収を断念したことはないと認めるべきであり」と認定し、債権者である被告人の主観的意思を重視しているようである。

しかし、所得税法上収入(益金)から差引かれるべき必要経費(損金)としての「貸付金の回収不能(法第五一条四項の資産損失)とは客観的な事実認定の問題であり、債権者の債権放棄又は回収断念等の主観的意思自体は回収不能の要件とは解すべきではない。

(右に関する法令の解釈についての弁護人の見解については弁論要旨第二点二(六一頁)に述べたとおりである。

国税当局は、回収不能の基準としては通常債務者の逃亡等による所在不明や倒産等の事実をもって概ね損金処理を認めている。

ちなみに同四〇年ころの旧法人税基本通達七八の三は「次に掲げる事実があるため当該債務者に対して有する貸金等の金額について貸倒れとなったものとして損金処理した場合にはこれを認めるものとする。「として同(2)に「債務者の死亡、失そう、行方不明、刑の執行その他これに準ずる事情により回収の見込がない場合」と規定しており、現在でも税務当局は右を踏襲して貸倒の認定基準としている(東京国税局調査課佐々木善春・不良債権整理のための税務処理・週刊税務通信56 5 4一六八〇号一五頁以下)。

そして、債務者が現在している場合の貸倒処理に関する「現法人税基本通達九六―一(4)」の「債務者の債務の超過の状態が相当期間継続し」とある「相当期間」とは、右国税当局の見解では「通常三年程度」といわれている(前掲国税通信一六頁)。

そして下級審の判例の一部には、債務者が行方不明でも債権回収に真執な努力が損金処理に必要である、旨しているものもあることは弁論要旨で述べたとおりである。

だとすれば原判決によっても「被告人の大沢に対する貸付金は同四八年ころまでに二、〇〇〇万円であり、それが同五三年ころまで約五年間焦付き、しかも同五二年二月ころには大沢は行方不明になり、その所在を探す一方弁護士に頼んで訴を提起する等したが格別資産もなく執行も果たせなかった」旨明瞭なのであるから、右は回収不能による損失として株取引益を雑所得として認定したことに対する公平上からも所得税法上当然認められて然るべきである。

回収不能とは右の如き客観的な事実状態でみるべきであって、債権者の主観的意思は要件ではなく単なる要件認定の一事情にすぎないものである。

けだし、債権者は、債務者が行方不明になっても又は債務超過になっても、数年後いや数十年後であっても、できれば債権回収したい意思は絶えず有しているのが通常であって、その場合損金処理を認めないことは、債権者の資金を長年圧迫することになり貸倒処理の法の趣旨に反し、又一般に公平妥当なる会計処理の基準に反することにもなるからである。

それに損金処理後回収した段階で雑収入で利益計上すれば足りることであって、このことは通達が、債権者の回収の意思有無いかんにかかわらず債務者倒産等の場合に貸倒処理を認めていることからいっても明らかであろう(法人税基本通達九―六―一以下、所得税基本通達五一―一〇以下参照)。

ちなみに確定決算基準を採用していない所得税法において、個人が雑損について経理処理をする必要がないことは弁論要旨にも述べたとおりであり(六二頁)原判決もその点は当然ながら肯定した結果になっている。

第二(事実誤認)

一 原判決は、被告人の(株)松栄商事こと大沢弘に対する同四八年一〇月六日の貸付金五〇〇万円について何故か無視している(弁八五)。

(株)松栄商事は設立登記を経ていないので右に対する被告人の貸付は大沢個人に対する貸付であることは法的に全く争のないところである。

右設立登記のないことは坂田の供述(七回一〇分三六二丁)のみならず当弁護人も確認しており裁判所(勿論検察官も)からも法務局に照会すれば容易に判明するところである。

二 原判決が、被告人の大沢等に対する貸付金回収を断念していないとの主観的要件を回収不能の要件とすることは誤りであること、前述のとおりではあるが、それはさておき原判決が右事実を認定した根拠となるものは、坂田が「昭和五四年八月ころ・・・・被告人にそろそろ本件各貸付の貸倒処理をするよう提案している」ことを重大視した結果であり、原判決は坂田の「右貸倒処理の検討は大都の貸付金に関するものであって、被告人の個人貸付金についてではない旨供述するが、当時大都の経営状態は赤字であって、貸倒処理の必要はなかったことは明らかである」と認定しているが右認定は独断であり、明らかなる説である。

青色申告法人である大都企業は、法人所得又は欠(赤字)について確定申告すべく義務づけられており、右義務は納税法人の赤字だから申告の必要がない等ということを許していない(法人税法第七条一項一号)。

大都企業は同五三年末頃それまでの小口貸付が焦付くようになって、その回収のために却って赤字になって来たところから、同五四年ころそろそろ損金処分しようとしていたところ同五四年八月に至って国税局の査察が入り帳簿等がすべて押収されたためそのままになってしまったことは坂田の供述によっても明らかであり、右に反する証拠はない(検甲九四金融月別収支帳、七回一〇分三七七~三七八丁、三八九丁)。

法人の貸倒金の損金処理は確定決算基準の原則から損金経理が必要ではあるが、所得税法上の雑損失としての貸倒金の処理は納税者である個人にとって態々格別なる損金経理処理を必要としないことを前述のとおりである。

それに、原審の主任裁判官でさえ法人でない被告人の所得について「簿外給与とか貸倒とかあれば当然申告すれば非常に有利になることをあなた(坂田)は当然知っていたのではないですか」と質問しており、当被告人の貸倒について申告しうる状態であったことを認識していたのではなかろうか、と思料される。

本件では前述の如く大沢、福田、橋本、菱山及武副(但し菱山の一部肩代り分)に対しては焦付いてから三年程経過し、かつ同五二年頃までには全員所在不明になっており、その間被告人は大藤を通じて同五三年八月被告人の個人貸付に従事していた同人が回収作業を止めて被告人のもとを去るまで回収に努力しており、同人が止めるにあたり被告人は「もういいから放っておけ」と事実上現実の回収を断念していることさえ明らかなのであるから(被告人、大藤の供述)再三いうとおり同五三年をもって回収不能になったものと断定すべきである。

原判決は「被告人の友人等に対する貸付について借主が行方不明になった後にも居所を探しあて、あるいは借主が現われて貸付の回収をした事例が何件かあったこと」をもって、大沢、福田等の行方不明の時点をもってはいまだ各貸付金の回収が不可能な状態になっていたものとは認められない旨判示して、検察官の主張を排斥しているが、右居所を探しあてたりしての回収はすべて同五三年八月までに大藤が調査したことに基くものであって、大藤が止めたことにより被告人は事実上回収の具体的手段を失なったものである。

ちなみに、貸倒の損金処理後行方不明になった借主が現われて弁済し、それを雑収に計上することは事後の問題であり貸倒の損金処理の要件と何等関係のないことである。

原判決の判示する被告人の「大藤が貸付金回収を止めた時点で必ずしも回収を断念していたわけではない」との供述は、仮に認められるとしても、単に被告人の「できることなら回収したい」旨の債権者なら誰でも有するはかなき願望を示したにすぎず、それに回収断念の有無は貸倒の損金処理の要件でもないことは前述のとおりである。

三 原判決は「関係証拠によればその後も大都の従業員小松本、坂田等が大藤から右大沢らに対する貸付金の管理回収の仕事をひきつぎこれにあたっていたこと」と認定しているが、右認定に足る証拠も皆無である。

大都の従業員のうち篠原は同五三年一二月で退職し、被告人の主として運転手をしていた小松本も五四年六月で退職しており、同人等が大藤の止めたあと前記債権等の回収の仕事をしたことはない。

だいいち同人等は前記各債権についての事情を知らないのである。

坂田は、湯浅の家が偶々坂田の家の近くであった関係から同五四年中に何回か行ったことはあるが、湯浅以外の債務者のところには大藤が同五三年八月止めたのち行ったことは皆無である(検甲九五給与台帳、坂田六回一〇分二二二丁、七回一〇分三五六丁、大藤九回一一分五三九丁)。

湯浅のみに関するのかその外の債務者にも関するのかあいまいな裁判官の質問があり、又それに対する坂田のあいまいな供述も一点だけはある(七回一〇分三八三~三八四丁)。

けれども、右程度の不明確な供述のみをもって原判決の如く認定することは余りにも不当である。

四 原判決は、福田及橋本に対しては被告人の個人貸付としながら、同時期に貸付け、福田と同様同五一年一一月頃一緒に呼んで今後の弁済方法を協議している菱山に対する貸付金について又菱山の被告人よりの借受金七〇〇万円の一部三〇〇万円を単に債務引受により肩代りしたにすぎない武副に対する同貸付金について、菱山や武副の借用証や抵当権設定登記の貸主名義が単に大都にすぎないことをもって右が大都の簿外債権である旨認定しているが、右は明らかに事実誤認である。

(一) 右は、被告人の菱山に対する貸付は福田に対する貸付と同じ頃であったことは、その頃両人が同じアパートに住んでいてそれぞれが被告人からの借受金を半使いしていて、お互に使用金額について同五〇年一一月頃大藤の前で口論していたこと(大藤の供述七回一〇分四三一丁)。

大都が金融業を同五月ころ始めて同一〇月頃既に焦付かしたり更には金融業にはあるまじき年利約六%の超低金利で長期弁済計画書を出させたりする等およそ考えられないこと等から明らかである(検甲九九及弁四二・五〇年一一月欄参照)。

(二) 仮に、更新のためにとった借用証等の貸主が大都名になっている理由については、被告人が大都の名に籍口して債権の回収と再度の借入申告等を拒絶しやすくするための便宜的なものであったことは弁論要旨で述べたとおりであるが(七七頁)、それはさておき、単に書面等の形式だけを問題にするなら、最も重要な証拠だと思われる大都の貸付金台帳(検甲一〇一~一〇三)や顧客名簿(検甲一〇四)にも菱山等の氏名の記帳がないことこそ重視すべきである。

(三) しかるに原判決は「所論の各貸付は当時大都には競争馬関係で被告人から多額の借入金があり、更に被告人からの借入をおこせば被告人の資産、所得を公表することになって、税金対策上まずいことになるため、帳簿上大都の借入を起こさなかった」旨認定しているが右も条理上奇異な独断である。

けだし、第一には右貸付金はいずれも同五〇年五月以前のものであり、焦付債権の譲渡でもしなければ大都の帳簿に計上できる筈はないからである。

第二には、大都企業といっても事実上被告人がワンマンで経営する会社であることは所轄税務署でも大都の申告書等や定期調査等で当然判かっていた筈であり金融業をやるための資金は主として被告人よりの借入に頼らざるを得ないことは当然であり、小口貸付の元金を被告人が貸付けたことは公表されており、問題はその収支であるべきだからである。

第三には、大都の法人所得の申告書添付の書類によって被告人の大都に対する貸付金等により個人資産の判明するのを嫌ったために大都の簿外貸付にしたというなら、即ち、大都名で貸しても申告しないというなら個人名で貸して申告しなくも同じ結果になるからである。

第四には、前述の如く年六%等という高利貸会社等およそあり得ないことである。

従って、右にそう坂田の若干の供述は意味不明であり、査察官吏の意のある質問に自己保身から迎合したものと思われる。

いずれにせよ、右断片的な供述だけで菱山及武副に対する貸付を大都の簿外貸付と断定することは不当であり、むしろ、仮に何等かの簿外貸付と認定するならば、被告人が金利を自己の収入としてとられることを嫌ったための被告人自身の大都に名を借りた簿外貸付とみるべきが自然である。

(四) 原判決は又「坂田は査察段階において大都の貸付でありながら、被告人の指示によって帳簿にのせなかったこと」等の供述をしていることをもって前述の認定の証拠としている。

しかし、坂田の収税官吏に対する右にそう供述記載はただ一部の質問てん末書(四分八六五丁)のみであって、右は収税官吏側にとって有利な点のみを羅列して質問した後の供述であって作為的なものであることは坂田の原審公廷の供述によっても明らかである。

右以外坂田はすべて菱山や武副に対する貸付も被告人の個人貸付である旨収税官吏にも述べているものであり前述の一部の供述は信用できない。

少なくても、福田に対する貸付と対比しても菱山や武副に対する貸付が大都の簿外貸付であると認定すべき合理性はない。

五 蛭田、中井、湯浅に対する貸付も被告人の貸付であることは、これ又原審弁論要旨で主張したとおりである(八五頁以下)。

第六点(ドミール千駄木の簿外家賃についての法令解釈の誤)

一 原判決は右に関する被告人のローンの支払は仮勘定ないし立替金として認めるべきであるとするが右は明らかに所得税法の所得損失の基礎となる収入より差引くべき費用(必要経費)の解釈を誤った違法がある。

けだし、ドミール千駄木は花電車の従業員に同四五年一〇月ころより長年に亘って使用させているものであって、ローンの支出はその名目いかんを問わず右使用という効果に対する営業費用に外ならないからである。

右使用の効果が同一状態で長年続いているのに交際費の事前渡や使途不明金又はある種の契約前渡金又は旅費の前払の如き短期間後清算が簿記合計上予定されている仮勘定又は立替金と同様に解釈することは社会通念に基いて判断すべき、一般に公平妥当と認められるべき会計処理の基準としての費用の解釈を明らかに誤まっている。

ちなみに税務当局自体企業の例えばアルバイトが取りに来ない三年程度の未払賃金は、会社が支払う意思があるにもかかわらず一旦雑収入に計上させ、然るのち支払った時点で損失に計上させており、だいいち、右の如き長期の仮払又は立替金等実務上認めないであろう。

会計学上の保守主義の原則は、「利益の予想は見込べからず、損失の計上は漏らすべからず」としており、企業会計原則も右保守主義(安全性)の原則を宣明している(同原則第一、一般原則六)。

従って税法上明文による特別の損益の定めがない限り本件ローンの支払は損失として計上すべきは、本来青木からみればそれが被告人の不当利得の範囲であることからみても当然である。

原判決には、右ローンの支払は被告人の経理処理がされていないことを理由に、仮払又は立替金としている如き口吻もみえるが、税法上所得の更正すべきときは計上漏れの必要経費は絶対的調整事項として計上しなければならないことを忘れてはいないであろうか。

ましてやほ脱犯の認定については行政法上の措置と異なるものであり、当然その実体において損金は認められるべきものなのである。

そうでなければ、そもそも簿外経費を態々認定してほ脱所得を算出した本件起訴の根拠を揺がすことになる。

二 以上は仮に法令の解釈適用の誤まりがないとしても事実誤認の事由になりうる。

第七点(大藤、坂田、池田及藤井に対する簿外給与についての事実誤認)

一 原判決は、被告人の質問てん末書における供述(七分一四八六丁)は、本件当時作成された関係資料に基いて供述している旨認定しているが、右供述金額にそう当時の資料は一体どこにあるのか、不明である。

二 坂田については、同人が大都の仕事以外に花電車の経理一般をもみていたことは明らかであるから、被告人(花電車)より月々一五万円合計で花電車の店長並の給与を受けていたことは事実であり、これを同人が自己のほ脱責任を回避するためにガソリン代等と称しても、被告人の手許から出た費用(損金)であることには変りはないものである。

三 大藤についても、明らかに大都の給与台帳上(検甲九五)は同五二年一二月末に退職して、大都からの給与支払は経理処理もしていないことからみても、同五三年一月より八月まで被告人の債権回収業務や花電車の建築関係等の雑務に従事していた関係上月末に被告人より毎月一五万円宛受領していたことは間違いのない事実なのである(池田一四分一一五三丁大藤)。

四 藤井についても、同人がさろん松から被告人に引き抜かれて花電車の店長候補として常勤するまでの暫らくの間ホステスのスカートなどをして経費もかかるためさろん松時代の三五万に一〇万円上のせ支払われたことも事実なのである。

五 池田についても弁論要旨(九七頁)で述べたことが正しいのである。

六 要するに原判決は、例えば坂田の供述について、島田の個人貸付について大都の簿外であるが如き一片の矛盾した供述は被告人に不利益に信用し、又同人の簿外給与の如きの供述については被告人の不利益に信用しない等宗旨一貫せず被告人に不利益に認定しており不当である。

第八点(接待交際費、福利厚生費等についての事実誤認)

原判決は、右のうち少なくても昌子の支出した接交費等についても認めないことは社会通念に反する。

原判決も認める如く昌子は大ママとしてさろん松の従業員の採用、ホステスの指導及び自ら接客等をしていたものであって、右に関する接交費や従業員に対する飲食代等の福利厚生費が一銭もかからない等ということは日常経験則上あり得ないことである。

原判決は、検察官が申告による右諸費用以上に簿外費用を認めたことをもって昌子の右に関する簿外費用を否定しているが、例えほ脱所得額が一五七万余円にすぎなくても、その算定の基礎としての売上増を認める以上絶対的調整事項としての費用の増加を認めるべきは当然である。

それに花電車は本来赤字でありその分がさろん松の利益にくいこんだ結果全体としては同五三年度において赤字になることも当然予想されて不思議ではないのである。

第九点(事業所得等に関するほ脱故意についての事実誤認)

原判決は、花電車の収支が赤字であることを看過している(四分八八七~八八八丁、八九七~八九三丁の申告金額圧縮状況表及坂田四回四分八六五丁外)。

さろん松の経営は原判決も認めている如く現実には昌子が行ない、その収支の管理も同人が行ない、被告人は坂田が花電車の収支と合算したものを組合を通じて形式的に申告していたにすぎず、さろん松の収支には一切関与していなかったのである。

花電車は現実の赤字を「社長借入」や「ママ借入」によって賄っていたものである外事業所得についての脱漏所得が僅か一五七万円余にすぎないことに徴しても、被告人が故意をもって両店の合算申告をしたとは到底考えられないものである。

収税官吏の簿外経費の算定等も手加減でどうにでも算定されるべき数字でわかる。

従って、株取引益についての雑所得が仮になかったとしたならば、他事例の比較からいって恐らくは本件は起訴されなかった事案だと思料する。

元々本件は税務当局のダイヤモンド、アルパイン及バー松等元従業員の経営する店の収支も実際には被告人のものではないかとの分散申告のけん疑により始まったものではあったが、その事実は全くないことが判明したが、さろん松には他の元従業員同様被告人が昌子に任した店であったにもかかわらず株取引の関係から被告人の経営する店とせざるを得なかったのではないかと思料するものである。

第一〇点(情状)

仮に本件株式売買益が被告人に帰属しなければ当然のこととして、又仮に同人に帰属するとしても、現実には株取引の主体は昌子でありながら昌子には一銭も利益が帰属しないという同人に対する犠牲の上で被告人に合算課税し、かつ、いわば昌子の無申告の身代りに罰する結果になっている。

本来昌子に株取引益について課税すれば超累進課税の関係で被告人と昌子にそれぞれ課せられるべき税率は著るしく低くなること、昌子は配偶者に対して認められる青色事業専従者控除(通常医師等の場合五〇〇万~一、〇〇〇万に及ぶものもある)に比すべき給料も経費として認められない結果となっていること、従って、本件は少なくても両者がきちんとした約定下でそれぞれの店の経営をするなり、又は昌子の報酬の取決をしていれば当然それは認められた事案であることは明らかであることに徴するとき、右実行したことに比してほ脱犯の法益である国家課税権は超累進課税により却って利益を得ていることも明らかである。

従って独り被告人のみを罰するのは不公平かつ酷である。

一般に判決認定の罰金額は脱税額の一五%―三〇%のものが多い、とされている(小島憩彦・司法研究報告第二四輯第二号・直税違反事件の研究二三頁)。

だとすれば原判決の罰金刑一、六〇〇万円は本件事案の内容に比して高額であり、一、〇〇〇万以下に破棄減額され、懲役刑は破棄されたく願うものである。

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